岡田麗史の問わず語り ~きさらぎの花に灼かれて~
プロフィールにもある通り、私は岡田朗詠の次男として生まれ、三歳の頃より能の稽古を受け始めました。一番最初の稽古の時のことは今でもはっきりと覚えています。稚児袴(能の子役、子方の穿く長袴)の代わりに父のズボンを穿かされ「ここをこう云う風に歩いて来て、ここ迄来たら左足をカケてあっちの方を向いて右足を引いてこう座る。座ったらモジモジしたりキョロキョロしたりしちゃ駄目だぞ。“はい”と言ったら立って、もと来たのと同じ様に帰って来るんだぞ。」と言われ稽古場の隅っこに座ると、姉や兄の稽古が始まります。謡に交じって時折父の叱る大きな声が聞こえて私までビクッとしながらも「はい」という父の声のするのを待っている時間の長かったこと。こうして最初の稽古は橋掛りからの舞台に入りワキ座でワキ正を向いて下居し、また立って幕へと引く為の稽古でした。普段は優しい父でしたが、稽古になると人が変わったように厳しかったです。
小学生になると、稽古の為放課後友達と遊べなかったり、日曜・祭日の遠足や運動会などの学校の行事と催しが重なって出られなかったりした時は悲しかったですね。公式には昭和37年「善知鳥」の子方で初舞台となってますが、アルバムなどを見るとどうもそれ以前にも仕舞や鞍馬天狗の花見の稚児などをしているようです。【写真2,3】
私が子供のころは、ちょうど子方をやる年齢の子供が少なかったのでしょうか、やたらに忙しかったです。次から次に新しい物を覚えなくてはならず、稽古も大変でした。
子供の稽古は教える方も大変です。謡の稽古は子供に謡本を見せずに一句づつ声を張り上げて謡い子供に真似させて謡わせます。それを何回も繰り返し少しずつ子供に覚え込ませるのです。型の稽古も幼少期には舞台を一杯に使って体を動かすことから始めます。年長になるに従って徐々に動きを集約して表現することを教えていくのです。
こうして小学生の頃は子方として忙しく舞台に立っておりましたが、中学生の頃になると事情が違って来ます。変声期で高い澄んだ声が出なくなり、背丈も高くなり子方としては通用しません。一番中途半端な時期です。それでも父は私を舞台に連れて行き、楽屋の働きをさせたり或いは能の地謡を端っこで謡わせたり、舞台上での用事のない曲の副後見として座らせたりしていました。勿論これは父ばかりでなく、先代梅若猶義先生たちが中途半端な時期の子供を何とか舞台に繋ぎ止めておこうとして下さったことなのです。たまに「安宅」の同山(ドウヤマ=義経の郎等)や「正尊 翔入」で立衆(土佐坊正尊の郎等)の役がつくと嬉しかったですね。特に「正尊 翔入」では、頼朝よりの義経暗殺の命を受けた土佐坊正尊の郎等と義経の郎等 江田源三・熊井太郎とが暗闇の中での切組を演じます。切り組とは平たく言えば、能的に様式化されたチャンバラのことです。生きるか死ぬかの死闘の緊張感がお客様に伝わらなければなりません。切り組の稽古を前に父が私に「いいか、太刀を打ち合わせた時には、太刀の方を見てはいかん。どんなときでも決して相手の目から視線を離さないよう気をつけろ。それから宙返りの時は両足を揃えて踏み込んだら自分の金玉に食らい付く様にして空中で廻転するんだ。」とアドバイスをしてくれました。話が前後しますが銕仙会に入ってから切り組をした時に先代銕之亟先生が「岡田は猶義の叔父さん(御先代はこう呼んでおられました。)の所で勉強しただけあって、流石にうまいな。様になっているよ。」と褒めてくださったことを覚えています。
中学三年になり将来のことを考えるようになると、私の心の中にある想いが沸々と沸き起こって来ました。「もっと広く他の世界を見てみたい」。この想いは受験勉強の最中も押さえ込むことは出来ず、父の機嫌の良さそうな時を見計らい思いの丈を打ち明けました。どやされると思いきや「よくよく考えてのことだろうな?お前の人生だ。それもまたいいだろう。但しこれからは何事も自分の責任でやるんだぞ。」という意外な返事でした。
こうして高校時代は全く能とは関わりのないところで、普通の高校生として学園生活をエンジョイしておりました。今迄できなかったことをするのが楽しくて、色々なことを致しました。入学後すぐできた友人と一緒に、音楽教諭を口説き落し顧問になって貰い新しいサークルも作りました。
サークルといってもオーディオを教室に持ち込んで、ローリングストーンズ、レッドツェッペリン、B・S・T、Chicago等のロックや、サイモン&ガーファンクル、井上陽水、吉田拓郎、泉谷しげる等のフォークを大音量で聴くだけのものなのですが、それでも皆んなで好きな音楽を聴きながらワイワイとお喋りするのは楽しかったですね。二年生の時は私が言い出しっぺとなってアルバイトでお金を貯め、夏休みに二週間の北海道貧乏旅行を敢行しました。とにかく何をやっても楽しい年頃でした。
三年生になり大学受験の準備をしだした頃、父が私に「たまには息抜きにどうだ。」と一枚の能のチケットをくれました。三年間で一度も能の舞台には触れることはなかったのですが、〝休みの日だからいいか〟と久し振りに能楽堂に足を運びました。入口でパンフレットをもらうと「葵上 梓之出・空之祈・小返之伝・長髢 観世寿夫」と書かれています。狂言は既に終わり能の開演ギリギリに見所に飛び込んだ私が先ず感じたのは、見所を覆うピーンと張り詰めた空気でした。〝何だ!この緊張感は!〟と驚きながらも席に着き、開演の時を待ちました。囃子方・地謡が着座し、後見が出し小袖を出すと幕が揚がりワキツレ(朱雀院の臣下)が登場し常座で名宣(ナノリ)になります。ワキツレは若き日の工藤和哉さんでした。顔面蒼白、手もプルプル震えています。この人をしてこれだけ緊張させているとは、楽屋の空気はさぞかし張り詰めているのだろうと想像しながら舞台を観ていると、呼び出されたツレ(巫女)の謡のうちにシテ(六條御息所の生霊)が現われます。すると舞台の空気はより一層緊張度を増し、おシテの寿夫先生の姿は嫉妬の蒼白い炎に包まれているかの様です。見所の椅子に見えない力でギュッと押し付けられたような感覚で舞台を凝視しているうちに「葵上」は終演しました。しばらく椅子から動けませんでした。圧倒的な力と情念、そして緊張感の具現。〝こんな能は観たことない!〟。「葵上」は子供の頃からよく見慣れた曲でしたが、こんな感覚は初めてでした。
水道橋から家路に就いた私は、地下鉄の車内でもまだ興奮していました。〝能にはこういうものも在るんだ!〟〝能もどうして捨てたものではない!〟私の脳みそは感動と興奮の嵐でした。それ以来、私はとにかく「観世寿夫」を追い掛けるように舞台を観て廻りました。「銕仙会」という集団があることも知りました。
今迄進路については、何となく〝京都で学生生活を送ってみたい〟ぐらいにしか考えていなかった私は、進路指導の先生の「滑り止めも受けておいたら?」という忠告にも聞く耳を持たず、無謀にも現役で立命館と同志社の二校だけしか受験しませんでした。特に立命館の入試では自己採点で得意の国語と世界史は98点、英語も87点。合格間違い無し!の自信がありました。ものの見事にしょい投げくらい、二校ともスベりました。浪人になってしまった私は予備校へは殆ど行かずに、相変わらず能の舞台を観て廻っていました。この頃は銕仙会ばかりでなく他の流儀の舞台も観るようになりました。そうこうするうちに、私のなかで是非やってみたいと思える進路が見えて来ました。
〝そうだ。能の文献的研究をしてみよう〟。こう心が決まると行くべき大学はただ一つ。能楽の文献的研究の権威・野上豊一郎記念能楽研究所を擁する法政大学です。こうして私ははっきりとした意志を持って法政大学文学部日本文学科に入学することになりました。