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鵺
摂津の国芦屋の川洲にある御堂で一夜を明かす僧(ワキ)の前に、うつお舟に乗った異様な者(シテ)が現れる。僧が名を訪ねると、近衛の院の御代に源の頼政の矢先にかかって命を落とした鵺の亡魂であると答え、その時の有様を語った後、僧に回向を頼んで波間に姿を消す。—中入—
僧が夜もすがら読経していると、本体を現した鵺の亡魂(後シテ)が出現して頼政によって退治された時のことを再び語る。頼政はそれによって恩賞を賜り名をあげたが、自分はうつお舟に入れられ流されて成仏出来ない身となったのだと自らの不幸な末路を語り、救いを求めながら海中に消えてゆく。
◎世阿弥作。『平家物語』巻四 「鵺」を素材とし、その本文をかなり忠実に取り入れている。
◎キリ(曲の終盤の型所)では、かかとを浮かして小刻みに滑るように左右に移動する「流れ足・ながれあし」という特殊な足使いをして、水上を漂う様を表現している。
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道成寺
昔、まなごの荘司という者の家を定宿として毎年泊る熊野詣での山伏がいた。荘司には一人の娘がいたが、寵愛のあまりに「あの山伏こそがお前の夫だよ。」などと戯れ言を言っていた。娘は幼心にそれを真と思い年月を送っていた。ある年、娘は山伏の閨に行き「いつまで私をほったらかしにするのですか。連れていってください。」と山伏に迫る。山伏は驚き、紀州道成寺へ逃げ込み訳を話して鐘を下してもらい、その中に身を隠す。娘はあとを追い、一念の毒蛇となって日高川を渡り、鐘に巻き付いて中の山伏を焼き殺してしまった。以上が道成寺伝説(『今昔物語集』巻十四、「道成寺縁起」など)であるが、能の道成寺はその後日譚の形になっている。
春爛漫の紀州道成寺。この春、長らく退転していた釣鐘が再興されることとなり、今日はその鐘供養の日である。住僧(ワキ)は能力(アイ)にそのことを告げ、故あって、女人禁制の由を触れさせる。そこに、この国のかたわらに住む白拍子(シテ)が現れる。白拍子は能力に頼み、舞を見せることとひきかえに、供養の庭に入り込むことを許される。白拍子は烏帽子をつけ乱拍子を踏み、舞を舞い、人々が眠った隙に鐘に近づき、鐘を落として飛び込むようにその中に姿を消した。—中入—
大音響とともに落下した鐘に驚いた能力は住僧に告げる。ことの次第に思い当たった住僧は、かつてこの寺で起こった事件(道成寺伝説)を物語る。その女の執心が残って、今また鐘に障りをなすのであろうと、住僧は従僧(ワキツレ)と共に法力を尽くして祈り、鐘が再び引き上げられる。中からは蛇体の鬼女が現われ、なおも鐘に祟りをなそうとするが、住僧たちの懸命の祈りに追い詰められ、祈り伏せられて、ついに日高川に飛び入り消え失せたのだった。
初めにこの曲の中心となる大きな鐘が狂言方後見四名によって運び出される。この時狂言方鐘後見は軽い物をさも重そうに運んで見せているのではない。縁に鉛管の入った鐘は本当に重いのだ。この曲のためにだけ能舞台の天井についている滑車に綱を通すと、シテ方鐘後見に綱を渡す。やはりこの曲のためにだけ笛柱についている鐶に綱を通して鐘を吊り上げる。シテ方鐘後見は五名。主(おも)と副、それぞれの後ろに控えるオサエが二名、もう一名は主後見のオサエの後ろに控えるサバキ。鐘を引き上げるのは主と副の二人の鐘後見が行う。綱を引く時に体が前にもっていかれないように、後ろから体重をかけて押さえるのがオサエの役目。サバキは鐶のところで綱を縛ったり、解いたりするのが仕事である。急ノ舞がすみシテの鐘入りが近くなると副の鐘後見は綱から手を離す。重い鐘を主の鐘後見一人で支えるのだ。シテは鐘を見込み扇で烏帽子を払い落とし、鐘の下に廻り込み鐘に両手をかけ足拍子を踏む。踏み終えた瞬間に飛び上がる。同時に主の鐘後見は綱を離し鐘を落とす。このタイミングがぴったりと合って、鐘が舞台に落ちきる前にシテの足が鐘の中に消えると、本当に女が鐘の中に吸い込まれたような印象を観客に与えることができる。大の男四人がやっと持ち上げるような重い鐘が上からまっすぐ落ちてくる。シテはその中に飛び込むのだ。失敗すれば命にも関わる危険な型だが、シテは命を預けた主の鐘後見を信じて無心に飛ぶだけなのである。
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阿漕
伊勢参宮に出かけた旅の僧(ワキ)が、阿漕が浦で一人の漁翁(シテ)に出会う。浦の名の謂れを尋ねると、この浦は大神宮御膳調進の網を引く所として禁漁の場所であるのに、阿漕という漁夫が度々密猟をしていたが、ついに露顕しこの沖に沈められた爲に出来た地名であることを語り、その回向を頼んで姿を消す。—中入—
僧が法華経を読誦し弔っていると、阿漕の亡霊(後シテ)が現われ、かつての密猟の様子を四手網を使って再現し、その報いによって地獄で苦しむ有様を見せ、僧に助けを乞うて、また海の底へと消え失せる。
◎密猟の様子を再現して見せる「立回り」では、周囲に人の気配は無いかや、魚を四手網の中に追い込む有様を見せる。
◎曲中引用される「源平盛衰記」・「古今和歌六帖」の古歌や、この能の抽くような事柄から、「阿漕」という言葉は一般語として「どこまでも強欲無慈悲であくどいさま。(古)内密にしていることも、たび重なれば顕われること。」の意として用いられるようになった。
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船弁慶
頼朝との不和により都落ちして摂津尼崎の大物の浦に着いた義経(子方)は、弁慶(ワキ)の進言により、静御前(シテ)を都に帰すことにする。静は名残の舞を舞い、泣く泣く別れを告げる。—中入—
義経一行が船頭(アイ)を頼み西国へ船出すると、途中にわかに天候が急変し、海上に平家一門の亡霊が浮かび上がる。中にも平の知盛の亡霊(後シテ)が義経を海に沈めようと襲いかかる。激しい戦いが行われるが、弁慶は数珠を押し揉み祈り退け、亡霊は引く汐とともに消え失せるのだった。
◎観世信光作。
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百万
春三月、京都嵯峨野の清凉寺釈迦堂は大念仏の人々で賑わっている。そこに少年(子方)をつれた男(ワキ)がやって来る。男は大和の国吉野の者で、少年を奈良西大寺の近くで拾ったという。やがてそこに女物狂(シテ)が現われ、念仏の音頭を取り狂い舞い、子と生き別れて狂乱となった身の上を語る。百万と名のる女物狂は、我が子との再会を祈ってさらに仏に舞をささげ、奈良から嵯峨野に来たことを述べ、この寺の本尊釈迦如来を讃えつつ、群衆の中に我が子を求める。やがて少年が尋ねる我が子であることがわかり、仏の力に感謝して母と子は奈良の都へと帰っていく。
◎世阿弥改作。当時有名であった女曲舞百万の芸尽しを見せる曲。
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葛城
出羽の国羽黒山の山伏(ワキ)が大和の葛城山に峰入りをして雪に降られて困っていると、ひとりの女(シテ)が現われて、自分の庵に案内し、火を焚いてもてなす。山伏が後夜の勤めを始めようとすると、女は自分のために祈祷してほしいという。山伏がわけを尋ねると、自分は葛城の神で、役の行者の命令にそむいて岩橋を架けなかったために蔦葛で縛られて苦しんでいる身だと告げ、祈祷を頼んで姿を消す。—中入—
山伏が夜もすがら祈祷していると、葛城の神(後シテ)が現われ、縛られている姿や見苦しい顔ばせを恥かしく思いながらも、ここは高天の原(たかまのはら)であると言って大和舞を舞った後、夜の明けぬさきにと岩戸の内へ姿を消す。
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野宮
諸国一見の僧(ワキ)が洛西嵯峨野を訪れ、小柴垣に囲われた黒木の鳥居の立つ野宮の旧跡にたたずんでいると、一人の女(シテ)が現われる。女は九月七日の今日は昔光源氏がここに六条御息所を訪れた日だと言い、源氏の愛を失った御息所が娘の斎宮とともに野宮から伊勢まで下ってゆく話を語り、自分こそ御息所の亡霊と明かして鳥居の陰に消え失せる。—中入—
その夜僧が弔っていると、物見車に乗った御息所の霊(後シテ)が現われ、加茂の祭の日に葵上と車争いをして辱められたことを語り、その妄執を晴らして下さいと僧に頼む。源氏の訪問を回想しつつ舞を舞い、車に乗って迷いの世界を出てゆくと見えて消え失せる。
◎「源氏物語」賢木、葵の巻に取材した曲。
◎作者は未詳。
◎野宮は伊勢神宮の斎宮となる皇女が禊をしたところ。
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山姥
山姥の山廻りの曲舞を得意とするところから百萬山姥(ひゃくまやまんば)と呼ばれ都で評判の遊女(ツレ)が善光寺参詣を思い立ち、従者(ワキ)とともに越後越中の境川に着き、そこから徒歩で上路の山にさしかかった所で俄に日が暮れ難儀をする。そこに中年の女(シテ)が現われて宿を貸そうと言う。一行を家に案内した女は、遊女に山姥の曲舞を所望し、実は自分が真の山姥であると告げる。驚き怖れた遊女は直ぐにも謡おうとするが、女はそれを制止し、夕月の頃に謡うならば、自分も真の姿を現わして移り舞を舞おうと言い捨てて姿を消す。—中入—
夜も更けた頃、降り注ぐ月光のもとで遊女が謡い始めようとすると、山姥(後シテ)が真の姿を現わして遊女に舞を促し、自らも深山幽谷の光景や山姥の境涯を謡い舞い、山から山への山廻りの有様を見せて、どこへともなく消えていくのだった。
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望月
信濃の国の住人安田荘司友治が同国の望月秋長に討たれた後、友治の家臣は離散していた。その中の一人である小沢刑部友房(シテ)は、今では近江の国守山の宿で甲屋の亭主になっていた。一方、友治の妻(ツレ)と遺子花若(子方)は敵の目を恐れて漂泊の旅を続けていたが、守山の宿に来て甲屋に宿をとり、思い掛けなく友房と邂逅する。またそこへ、永らく在京していた望月(ワキ)が帰郷の途中この甲屋に宿をとった。友房はこの好機を喜び、今夜のうちに花若に仇討させることを誓う。友房は望月の座敷に酒を供し、友治の妻を盲御前に仕立て曽我兄弟の仇討の物語を謡わせ、花若には羯鼓を打ち舞わせ、自らは獅子頭を被り獅子を舞う。次々と繰り広げられる芸尽しのうちに、酒杯を重ねた望月は陶然として眠気に襲われる。この機を逃さず、友房と花若は本懐を遂げるのであった。
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仏原
白山禅定のために加賀の国、仏原に着いた都の僧(ワキ)が近くの草堂に一夜を明かそうとする。一人の女(シテ)が現れ、白拍子仏御前の命日故、回向をして欲しいと願う。僧の問いに女は物語る。昔、平清盛は祇王という白拍子を寵愛していたが、若い白拍子仏御前に心を移し、祇王を追い出してしまう。祇王は髪をおろし、嵯峨野に隠棲し念仏三昧の日々を送る。その嵯峨野の庵を、寵愛の移ろいやすいことを悟って、尼姿となった仏御前が訪ねてくる。祇王は尼となってもなお仏御前を恨む心があったことを恥じ、仏御前こそ真の仏だと感涙を流す。そしてともども後世を願って念仏の日々を送った。こう物語った女は自分がその仏御前だと名乗って姿を消す。—中入—
供養する僧の前に仏御前(後シテ)がありし日の白拍子の姿で現われ、舞を舞う。一夜の夢のごとき現世には、仏も人も隔てはなく、舞も舞わない前こそが真の仏心の舞いなのだと言い残して消え失せるのだった。
◎「平家物語」の中でも女人発心譚として名高い「祇王」を題材に、仏御前の誕生地を舞台に、人があまねく持つ仏性を主題とした夢幻能。
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大会
比叡山の僧正(ワキ)が庵室で仏道三昧の境に入っていると、一人の山伏(シテ)が来て、先日命を助けて頂いたお礼に何事でも望みを叶えてさし上げたいと言う。僧正が、それでは霊鷲山での釈迦の説法の有様を見たいと頼む。山伏は承知し、ただし絶対に信心を起こさないようにと念を押して姿を消す。―中入―
やがて釈迦に化けた大天狗(後シテ)が現われ、魔術を遣うと、山はそのまま霊鷲山となり、釈迦説法の光景が現出する。あまりの有難さに約束を忘れて信心を起こし、僧正は随喜の涙を流して礼拝してしまう。途端に山は振動し、帝釈天(ツレ)が天から降り下って、天狗の魔術を破ったので、説法の大会は粉々に砕け散ってしまう。帝釈天に散々に懲らしめられた大天狗は、通力を失い深谷の岩洞に逃げ込むのであった。
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熊野
遠江の国池田の宿の長の熊野(シテ)は、平宗盛(ワキ)の愛人として都に住いしている。国許から老母の重病の知らせを持って侍女の朝顔(ツレ)が訪ねて来る。熊野は宗盛に母の文を読み聞かせ暇を乞うが、宗盛は許さない。今年ばかりの花見の供にしたいと、花見に連れ出す。華やかな花見車に乗せられても熊野の心は沈むばかり。東山、清水の爛漫の桜のもと酒宴がはじまる。命ぜられるままに舞を舞う熊野。にわかに村雨が降り、桜を散らす。熊野は「いかにせん 都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん」と危篤の老母を案ずる和歌を詠む。さすがに宗盛もその和歌に感じ、帰郷を許すのだった。
◎「平家物語」巻十海道下りの事の挿説に着想を得た曲
◎平家没落の足音が聞こえるなか、最後かもしれない都の花見に執着する宗盛と瀕死の母を気づかう熊野との葛藤が爛漫の桜の中で展開する能。華やかさの中で、散りゆく桜が宗盛にも熊野にも深い影を落とす。
2005年4月2日 第五回岡田麗史の会 『熊野』より
「文之段(ふみのだん)」
遠江 池田の宿の長 熊野(ゆや)は平宗盛の寵愛を受け都に留め置かれていた。ある日国許から侍女の朝顔が老母の重病を伝える手紙を持って来る。熊野はその文を宗盛に見せて暇乞いをしようとするが宗盛は文を手に取ることもせず熊野にその文を読んで聞かせよと命ずる。故郷の老母が命あるうちにもう一目会いたいという心情を綿々と書きつらねた文を熊野が涙ながらに読み上げるという『熊野』前半の聞かせ処。 -
忠度
平清盛の末弟薩摩守忠度は、平家一門とともに都落ちしたが、途中から都へ引き返し、和歌の師である藤原俊成卿に自作の歌を託し、思い残すことはないと再び西下した。後に「千載集」を撰した時、俊成は忠度の詠んだ「ささ波や 志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな」の一首を忠度が勅勘の身なので「読人知らず」として入れた。一の谷の合戦で忠度は岡部六弥太に討たれたが、その箙には「行き暮れて 木の下影を宿とせば 花や今宵の主ならまし」の歌が結び付けられていた。文武に優れた忠度の死は人々に惜しまれた。(曲のあらすじ)花の頃、もとは俊成に仕えていた旅の僧(ワキ)が須磨の浦に赴き、若木の桜に手向けをする一人の老人(シテ)と出会う。老人からそれが忠度の墓標だと聞き、俊成に縁のある身であると僧は回向する。老人はそれをわが身のこととして喜び、みずからが忠度であることをほのめかして花の陰に消え失せる。—中入—
その夜、僧の旅寝の夢に忠度の亡霊(後シテ)が現われ、和歌の道への執心と、一の谷の合戦での最後の様子を語り、弔いを乞うて姿を消す。
◎世阿弥作。「平家物語」巻七、巻九に着想を得た修羅能。
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砧
九州芦屋の某(ワキ)は訴訟のために上京していたが、逗留が三年に及んだので、留守宅を案じ侍女の夕霧(ツレ)を帰国させる。今年の暮には帰国するという便りをもち戻った夕霧に対して妻(シテ)はなんの便りもなく長い間家をあけた夫の無常さを恨み、空閨のさびしさを嘆く。折しも里人の砧を打つ音が聞こえてくる。昔、蘓武の妻が夫を恋うて打った砧の音が、遠く隔てた夫の耳に達したという故事を思い起こした妻は、わが思いを都に通わせようと、冴え渡る月光のもと砧を打つ。しかし、夫からは今年も帰れぬという残酷な知らせが届く。妻は病の床に臥し、そのまま空しくなる。—中入—
知らせを受け急遽帰国した芦屋の某は、砧を手向け弔う。妻の亡霊(後シテ)が現われ地獄の苦しみを語り、夫の不実を責めるが、法華経の功徳により成仏を果たすのだった。
◎「申楽談儀」に「かようの能の味はひは、末の世に知る人あるまじければ…」と世阿弥は書き残している。自信作であると同時に、後代に理解されないかも知れないと危惧した孤高の傑作である。
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隅田川
隅田川の渡し守(ワキ)が乗客を待っていると、都からの旅人(ワキツレ)、次に女物狂(シテ)がやって来る。女物狂は都北白河の者で、人商人にわが子をさらわれて心乱れ、その子を求めて隅田川まで下ってきたのである。女は「伊勢物語」の昔に思いをはせて都鳥にわが子の安否を問うたりした後、はるばると来た旅路を思う。渡し守は女物狂いをも舟に乗せてやり、舟を漕ぎ出し、対岸から聞こえてくる大念仏についてその物語をする。回向を受けるその子こそ、探し求めるわが子梅若丸と知った女は舟中に泣き伏してしまう。憐れに思った渡し守は女を塚の前に導き、念仏を勧める。一心に唱える母の念仏に応ずるように塚の中から梅若丸(子方)の念仏の声が聞こえ、母の目にはわが子の姿が幻のように見える。しかし、その姿も夜が明けるとともに消え失せ、あとにはただ草茫々とした塚があるだけだった。
◎観世元雅(世阿弥の長男)作。
◎母が子を尋ねる狂女物の中で、子に再会できないのは本曲だけである。
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融
東国より都に上り六条河原の院に足を留めた僧(ワキ)の前に汐汲みの老人(シテ)が現われ、塩竃の浦を模した河原の院の月を愛で、融の大臣の昔を偲ぶ。僧の問いに答えて京の名所教えをした老人は、汀に立寄り汐を汲むと見る間に姿を消した—中入—
僧はなおも奇特を期待してそこに旅寝していると、融の大臣の亡霊(後シテ)がありし日の姿で現われる。融の大臣は月光のもとで、昔を再現するように華やかな遊舞を尽くして舞い遊ぶが、やがて夜が明けるとともに月の都へと昇ってゆくのだった。
◎古作の「融の大臣の能」を世阿弥が詩情豊かな詩劇に仕立て直した能。
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藤戸
源氏方の武将佐々木の三郎盛綱(ワキ)は藤戸の戦で先陣の功を立てた恩賞に、備前の児島を賜わり、初めて領主として乗り込み、なにごとでも訴訟ある者は申し出よと領民に触れを出す。一人の中年の女(シテ)が出て来て、盛綱に殺されたわが子を返してくれと嘆き訴える。盛綱は、はじめは取り合わぬが問い詰められて、若い漁夫に馬でも渡ることが出来る海の浅瀬を教えてもらうが、他の者に漏らすことを恐れてその漁夫を殺して海に沈めた始終を物語る。その話を聞き益々嘆き悲しむ漁夫の母に、弔いを約束して家へ帰らせる。—中入—
その後、殺された漁夫の追善供養をしていると、漁夫の亡霊(後シテ)が現われて、理不尽に殺された恨みを述べる。自分が殺された時のことを語り、この恨みを晴らすために悪龍となって祟りをなすつもりであったが、回向を受けて成仏得脱の身となれたと言って姿を消す。
◎原典である「平家物語」巻十の「藤戸」では内容が盛綱の先陣功名譚として描かれているが、この能の主題は、その盛綱功名のかげで行われた事件である。前シテを殺された漁夫の老母にしたことによって、戦功の犠牲となった一庶民の怒りがより強く表現されている。
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班女
美濃の国野上の宿の遊女花子は東国下向の吉田の少将と契りを結び、互いの扇を交換して別れたが、それ以来花子はうつつない状態となり、その扇に眺め入っているばかりなので、野上の宿の長(アイ)は勤めを怠る花子(シテ)を追い出す。花子はどこへ行くともなく迷い出る。—中入—
吉田の少将(ワキ)は帰京の途中野上の宿に立ち寄るが、花子の不在を知り、そのまま都へ上り糺(ただす・下賀茂の社)に参詣する。そこへ物狂の状態になった花子(後シテ)がやってくる。人々は扇を持ち物に狂う花子のことを班女と呼んでいた。(班女とは前漢成帝の寵姫・班倢伃 はんしょうよ。帝の愛を失ったわが身を秋になって捨てられる扇にたとえた詩を詠んだ。)吉田の少将との再会を神々に祈り、扇に寄せてひたすらに恋慕の情を述べつつ舞う花子。吉田の少将は女の扇を見せてほしいと言い、自らの扇を与え、それぞれの扇によって、互いに相手が愛する人であるとわかり、再会を果たすのだった。
◎世阿弥作。
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葵上
光源氏の正妻である左大臣の息女葵上が物の怪に悩まされている。朱雀院の臣下(ワキツレ)は、物の怪の本体を知るために、照日の巫女(ツレ)を呼んで梓にかけさせる。梓の弓の音によって呼び寄せられたのは六条の御息所の生霊(シテ)であった。御息所は源氏の愛を失った怨みを述べ、車争いで恥辱を与えられた葵上に憑き祟り、後妻打ちをして連れ去ろうとする。—中入—
急ぎ呼び迎えられた横川の小聖(ワキ)が加持祈祷すると、鬼女の姿と変じた御息所の生霊(後シテ)が現われる。御息所の生霊はなおも葵上に祟りをなそうと激しく抵抗するが、ついに祈り伏せられ、心を和らげて成仏得脱の身となるのだった。
◎「源氏物語」葵に着想を得た曲。 -
岡田朗詠七回忌追善能
『求塚』(もとめづか)
平成25(2013)年4月6日
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第十回岡田麗史の会
『定家』(ていか)
平成25(2013)年10月20日
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第十一回岡田麗史の会
『松風 見留』(まつかぜ みとめ)
平成27(2015)年10月3日